2011年12月19日

立岩真也『希望について』

それは現実的でないように思える。だがまず、現実的でなくても考えてみるだけ考え、言ってみるだけ言った方が良い。実現可能性は別として、何が何より望ましいのか、こんがらがってよくわからなくなっているのが現状だからである。(以下略)

ここのところ河出書房新社のホームページで興味深い連載がされている。立岩真也という社会学者の「境界を社会学する」というもので(月1回、20日更新)、こんなことなら大学時代に社会学を専攻したら面白かったかもしれないなと思うほどである(もっとも、自分の成績では入れやしなかったに違いないし、その頃であれば統計学に基づいた面白おかしくもない分かりきった結論にしか辿りつけないようなことをあれこれやって、結局「ああつまらなかった」と終わっていたに違いないのだが)。
このひとの面白いところは、いくつかの事象についていくつものケースを挙げながらああでもないこうでもないと考察を加えてひとつずつ丹念につぶしていくということをする(継続審議になるような場合はその本では無理であっても後日あらためて検証することを怠らない)。
社会学の学問の特徴であるのだろう、問題点が哲学や経済、歴史にまたがることがあり、広く薄くなのか広く深くなのか、とにかく多岐に渡って考察していかなくてはならない。彼のやろうとしていることすべてに僕が興味があるのではないので、とりあえず僕の現在の問題点となっている「希望」について考察を加えた『希望について』(青土社、2006年刊)を図書館で借りて読んでみることにした。
右肩上がりの経済などというものは今やありえない。≪震災≫を経た我々の共通認識としてそれはあるように思う。手間や労力を省くという意味での電力化(ひいては原発推進)をし、多くの余剰人員を生み出してきたこれまでのやりかたはもう通用しなくなったのだ。 それを五木寛之は「下山の思想」なるうまいキャッチコピーで表現したが、まさしくそういう時代なのだ。
高齢社会が言われて久しい。いずれは労働者不足が懸念され、出生率が低空飛行を続けていることが問題にされている──が、その一方で現実には失業者がいるこの社会を、著者は《みなが働かなくてもみなが暮らしていけるということなのだから、それ自体はたいへんけっこうなことというほかない》というのである。たしかに、そのように言われてしまうとそう思えなくもない(というか、正しい)。要は、配分だか分配だかの問題であって、世の中に転がっている諸問題は実はかなりの部分でクリア出来る、という(所得は多いところから足りないところにまわせば良いし、仕事がそもそも少ないのであればそれぞれの仕事を切り分けて仕事のないひとにまわせば良い、という具合)。
しかし、現実問題として労働の分割はなかなか進まない。というのもそれは働いた者がより多くを取るという前提があるから で、実はその前提が間違っているのではないかと著者は言うのである。働いている側のひとが働かないひとに不平を言うなら「じゃあ、代わって(働かせて)」というのが働きたくても働けないひとがわの論理で、そうした移転が出来ないのであれば働いている側が働けない側の分まで 被るのは当然のことのように僕にも思える。こうした現状をいち個人やいち企業で解決することは非常に困難で、そこには政治的な力(法的な 拘束力)が必要になってくるのだが、たとえば、9割(かどうかは知らないが)の有権者が原発存続に反対しているにも拘わらず、それを良しとしないごくいち部のひとたちの意見を採って原発再開のための点検を指示してしまう政治があるように、政治において国民は無力であるように思える。。しかし冒頭で引用したように、こんがらがった問題を丁寧に解きほぐしていけば、今よりは解決に近づけていけるのではないか。
ひとつずつ、心配の種を丹念につぶしていくこと。それしかないのかもしれない。「それでもなお」と。
──追記──
読んでいる最中に本書とまったく関係のないところでの自分なりの(現状での)結論として思い浮かんだのが「自分は自分でいいんだ、と思えること」というものだった。そこに希望の源泉としてあって、まず自分の立ち居地に肯定的になれることが必要(大事)なのではないかと思うのである(そう考えられるだけ、僕の状況は悪くないということでもある)。
posted by ぐらうくす(=urbane) at 23:53 | Comment(0) | BOOK LOVE
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